土地に歴史あり。建物や所有者が変わっても不思議と因縁がつきまとう場所がある。一方で、もっともらしく「墓地の跡に建ったから」「元は病院だったから」などと語られる怪談の由来が、実はまったくの事実無根だったりする。土地の歴史を紐解くと、怪談の真の姿が見えてくる。

都内でも最恐と言われるパワースポット、平将門の首塚(千代田区)。平安時代の武将、平将門が戦に敗れ、京都でさらし首になった。将門公の無念は強く、いつまでも生首が腐らなかったとか、夜な夜な大声で叫んだとか言い伝えられるが、ついには一夜のうちに故郷に向かって飛んできたのだという。その首を祀ったのが将門塚だ。

しかし、この場所に祀られたのは、実は平将門が初めてではない。将門塚ができる前、ここに何があったかご存知だろうか?


もともとは墓であった。それも巨大な墓……古墳だ。


この場所を有名にしているのは、言うまでもなく「祟る」という噂である。都心の一等地、これまでに何度も再開発の機会があったが、その度に不幸が起き、いつしか将門塚は動かしてはいけない場所になった。時代を遡りながらみてみよう。

・大蔵省の不幸

この場所の「祟り」が広く世に知れたのは、おそらく大正時代の大蔵省の仮設工事がきっかけだろう。1923年の関東大震災後、焼失した大蔵省の仮庁舎用の土地を確保するため、塚が取り壊された。その直後、時の大蔵大臣や工事部長が相次いで亡くなり、官僚の怪我人も続出した。塚を壊したからだ、あるいは塚に土足で上がったから足に怪我をするのだ、とまことしやかに囁かれたという。

たまりかねて1927年に鎮魂碑を建立。なぜそれが国民に知れたのかというと、新聞に取り上げられたからだ。

その後も1940年には、落雷による火災が付近一帯に起こり、せっかく再建した大蔵省庁舎は焼失。全焼21棟、殉職警防団員2人、重軽傷者107人に及ぶ大火災だった。塚の破壊からは時間が経ち過ぎているが、くしくも平将門の没年は940年、ちょうど千年後の出来事だ。

さらに第二次世界大戦後、GHQによる再開発でも、塚を整地しようとしたブルドーザーに横転事故が起きて運転者が亡くなった(口伝)という。それまでも事故が続いていたため改めて調べてみると、前述の鎮魂碑が焼け野原から出てきたのだとか。


・江戸時代のお家騒動

では近代以前はどうか。古地図によると、大蔵省の敷地はかつて姫路藩の江戸屋敷だった。将門塚は庭にあり、大切に祀られていたというが、ここでは江戸時代に血なまぐさい「お家騒動」が起こっている。

大老だった姫路藩・酒井雅楽頭は、騒動の裁定をしなければならなかった。当事者の原田甲斐、伊達安芸(ともに仙台藩)を屋敷に呼んだが、審理の最中に刀傷沙汰となり両者は惨死。事件後に原田家は責任を取らされ、乳幼児を含め男子全員切腹または斬首。一家は断絶した。今も当地には「伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところ」の立て札がある。

・はじまりの地

さらに時代をさかのぼると、酒井家の前にも何代かの大名屋敷として使われたが、その前は柴崎村という小さな村だった。ここが最恐伝説のはじまりの地で、将門公の首が落ちてきたという場所だ。村人は首を洗って埋葬したものの、飢饉や疫病などの不幸が続いたという。

一説によると首なしの亡霊が夜な夜な首を探して村をさまよったとか、身体を示す「からだ」がなまって「神田」という地名が生まれた(諸説あり)とか、真偽はともかく伝承には事欠かない。

1307年、諸国を巡礼していた僧侶・他阿上人(真教上人)が村人の窮状を聞き、古代からあった古墳を将門の墓に見立てて供養したとされる。元々の柴崎古墳が誰のものであったかはわかっていない。


ところで……自ら飛んできたにも関わらず、無関係の村の人々に害をなすというのは少し腑におちない。原因だと思われていた悪霊が、実はさらなる元凶に呼び寄せられていた……というのは怪談のよくあるパターンだ。古墳があったということを考えると、この地は元々パワースポットだったのではないか。もしかしたら、将門公は呼ばれたに過ぎず、数々の凶事は柴崎古墳に由来するのではないだろうか……。


余談だが、都市の下に埋もれてしまった古墳を調査するという作業は通常だと困難だ。柴崎古墳は大正時代に考古学者の鳥居龍蔵氏によって貴重な調査の機会を得るのだが……それは関東大震災によって東京が焼け野原になり、古墳が露出したからだ。まるで古墳が自らその存在を示したようで、言い知れぬものを感じる。

・現代

かくして、高層ビルに囲まれた千代田区の一角に、今なお不自然に四角く切り取られたように塚が残っている。現在は文化財(都旧跡)に指定され、保存会によって手厚く維持管理されている。周囲のオフィスビルでは首塚を見下ろすような窓は作らない、首塚に背を向けるような机の配置をしないなどの都市伝説が語られるが、あなたは信じるだろうか。

今よりも安全対策が未熟だった当時、火災や土木工事による事故は多かっただろうし、飢饉や疫病に苦しむ寒村も珍しくはない。しかし、ひとつの場所に集まるエピソードとしては多すぎやしないか。これは、事実はともかく「意味のある一連の出来事」として人々の記憶に残ってきた、ということだ。それこそが土地の持つ正邪のエネルギーとも言える。

何より、千年を超えてこの場所がビルの谷間に残っているということが、どれだけ多くの人を「信じさせたか」を物語っている。人々に影響を与える土地、因縁のある土地という点では間違いなく「本物」と言えるのではないだろうか。


参考リンク:鳥居龍蔵著『上代の東京と其周囲』、国税庁「大手町の首塚」、東京消防庁「消防雑学事典」、神田明神「神田明神の「神田」とは」
執筆:冨樫さや
Photo:RocketNews24.