本日1月31日は「愛妻の日」である。世の旦那さんたち、奥さんを大切にしているかな? その他にも本日は香取慎吾さん、真矢みきさん、そして徳川家康の誕生日でもあり、そして何といっても “東洋の巨人” ことジャイアント馬場の19回目の命日である。

ジャイアント馬場──。1999年に亡くなってからも、力道山・アントニオ猪木と並ぶ日本人ならば誰もが知るプロレスラーの1人であろう。今回は馬場さんを偲び「意外と知らないジャイアント馬場伝説」を4つお届けしたい。

・名著『1964年のジャイアント馬場』

まずこの記事は、柳澤健氏著の『1964年のジャイアント馬場』を始め、いくつかの書籍を参考にしていることを記述しておく。特に『1964年のジャイアント馬場』は名作で、読み物として純粋に秀逸だ。ふわっとしたイメージしかなかった馬場さんのリアルがあふれているぞ。

それはさておき、プロレスファンでない人はジャイアント馬場にどんなイメージをお持ちだろうか? 「優しいおじいちゃん」「天然ボケ」なんて答える人も多いと思うが、とんでもない。馬場はトップアスリート、優秀な経営者、そして自分に盾突くものは許さない “キラー” など、様々な顔を持ち合わせていたのだ

・元々はプロ野球「読売ジャイアンツ」のピッチャー

ご存知の方は多いと思うが、馬場はもともと巨人のピッチャーである。残念ながらプロ野球選手としては大成しなかったものの、2軍では2年連続で最優秀投手賞を受賞するなど、アスリートとしての片りんを見せている。つまり、ただ体が大きいだけのプロレスラーではなかったということだ。

・スーパー高給取り

プロレスデビューを果たした馬場は、その後アメリカへと渡る。そして売れに売れに売れまくった。当時の試合は「ベビーフェイス(善玉)」vs「ヒール(悪役)」という試合が一般的で、アメリカ人をも凌ぐ巨漢の馬場は引く手あまただったのだ。

そして給料もヤバい。あるときの契約は週給8000ドル、現在の紙幣価値だと1500万円ほど。そしてまたある時は10年契約で年俸は27万ドル(現在の紙幣価値で約6億円)を提示されたというからヤバすぎる。おそらく当時は世界屈指の高給アスリートだったハズだ。

・身内にはとことん優しい

馬場さんが身内、つまりファミリーにとことん親切なのは有名な話だ。スタン・ハンセンを始めとする外国人レスラーは誰もが「馬場は世界一信用できるプロモーター」と口を揃えるし、馬場自身もファミリーには誠心誠意尽くすのが流儀だったようだ。

例えば後に天敵となるアントニオ猪木に対しても、ファミリー時代(日本プロレス時代)は優しかった。後輩の猪木が海外武者修行に旅立つ際「俺はもう使わないから」と手持ちのドル紙幣を猪木のポケットに押し込んだという。その額、現在の価値で100万円以上だというから驚くしかない。

・敵には容赦しない “キラー馬場”

経営者としての馬場は間違いなくキラーであり、ブラック馬場としての顔も持ちあわせていた。例えば当時、馬場が「全日本プロレス」を経営し、アントニオ猪木が「新日本プロレス」を立ち上げたときのこと。馬場は政治力を駆使し、新日本プロレスに一流外国人プロレスラーが入らぬようあらゆる画策を行った。

当時は外国人プロレスラーがお客を呼ぶ時代。完全に馬場はライバル団体を潰しに出ていたのだ。その他、一時は全幅の信頼を置いていた週刊プロレス編集長・ターザン山本への裏金と “その後の仕打ち” など、馬場は冷徹なまでのビジネスマンであった。

個人的な話で恐縮だが、記者がプロレスを見始めた頃、馬場はすでに一線を退いており「おじいちゃんレスラー」くらいの印象しかなかった。が、その後キラーな一面を知れば知るほど、ジャイアント馬場の奥深さと偉大さ、何より人間味に魅せられた次第だ。

人間は誰しもさまざまな顔を持っている。そしてそれは “東洋の巨人” ジャイアント馬場も例外ではない。19回目の命日である今日、少しでも多くの人に馬場さんのことを思い返してもらえたら幸いだ。

参考リンク:1964年のジャイアント馬場(Amazon)
Report:P.K.サンジュン
Photo:RocketNews24.

▼本当にオモシロいからプロレスファンにはオススメだ。